闘病日記
こんにちは
数日前の春を思わせる様な暖かさから一変して
今日は小雨も降り、風もあって 寒い1日となりました。
わたくしご老体にはホント 着いていくのがおぼつかない今日この頃ですが、
長い間 留守していてス・ミ・マ・セ・ン・・・。
さて、本日は 私たちが久留米に住み始めたキッカケを少しお話してみたいと思います。
少し長くなるかもしれませんが、最後までご覧頂けたらうれしです。
私の夫 OKAZI 1号と私2号夫婦は、1号の2度目の転勤先である広島県呉市に
家族4人で、何事もなく幸せに暮らしていたのですが、
1番上の子が4歳の時に実家の母が脳溢血にたおれ、8時間かかって隣の市である実家に
帰り着きました。
それから10ヵ月後 今度は私たちの大事な息子が訳わからない病にたおれました。
たまたま実家に帰っていて、「風邪がなかなか治りにくいね」くらいにしか思って
いなかったけれど、そのうちだんだん不安になり、先生も「??」と思われたのでしょう
紹介状を書いて頂いたのですぐにその足で総合病院へ連れて行き、もうその日から
私達親子の(家族全員の)闘病記のはじまりです。
夫は広島、次男(当時1歳8ヶ月)は夫の実家である下関、私と長男は久留米医大病院にて
病魔と闘いが始まったのです。
病名は「神経芽細胞腫」
下の子は おばあちゃん(義母)いわく「○○さん(私の事)位の人を見ると おかあちゃん、
おかあちゃんと言って誰にでも着いていくから困った」と言っていました。
入院中はやっぱり大変。
楽あれば 苦ありで、本当に親子で病魔と戦争をするのです。
子供が寝てから影でどれだけ涙を流したことか・・・
悲しい顔をしていると「お母さんどうしたと?」って子供が心配してくれるし・・・。
でも、そんな環境のなかで私が1番気を許し、何でも話せる人、何でも聞いてくれる人
それは同じ闘病仲間でした。
本当は何とも言えないくらい辛いはずなんですが、仲間と一緒にお話をしている間は
知らない方が見たら「エッ、ホントに患者のお母さん?」と言われそうな位。
ある意味明るくて楽しかったです。
でも実際は神経ピリピリしていたんですよ
お母さん達は皆さん同じだったと思います 影で涙を流していたんです。
で、色々と危険な時期を乗り越えて、10ヶ月の入院生活を終えました。
そこで先生から「広島の病院に紹介状を書いてもいいですよ」と言われたのですが、
移った病院でまた同じ検査で痛い思いはさせたくなかったので、先生と夫婦で話し合って
「ここの先生にお願いしょう」ときめました。
それで病院に近い住まいを探し、親戚回りをしていた弟を引き取り、少し遅れて夫が合流、
その時次男(弟)は2歳6ヶ月に成長していました。
長男はその8ヶ月後、5歳6ヶ月でお星さまになりましたが、弟が出棺の時
「おにいちゃん!!おにいちゃん!!」と言って取りすがって大泣きしていた姿が
今でも私の瞼に焼き付いています。
夫の仕事も 福岡に移ってから後は転勤もなく昨年めでたく退職致しまして、
誰にでもついて行ってた次男も今では三十路のオヤジです。
そして、そんな私を救ってくれた闘病仲間たちとは、今でも”美人会”・・・(スミマセン)と
して本当に良いお友達(と言うか戦友と言うか)として交流を続けさせてもらっています。
みんなありがとう !!
p.s 実は数日前 ”美人会” メンバー集合して来ました。
お姉ちゃん大変お世話になりました どうもありがとう。
皆様 長い話にお付き合いいただき有難う御座いました。
以上が私共 久留米に住みついたキッカケでした。
2009/01/31 22:59 | 未分類 | COMMENT(1) | TRACKBACK(0) TOP